こんばんはきどりんです。
今日はひとりごとです。
この週末、当団は実は結構忙しいのです。
明日土曜は音楽教室本番→tuttiだし、月曜には早稲田祭の本番が控えております。
で、あとはひとりごと。気球に乗ってどこまでも、について。
クリック、ありがたき幸せに存じまする。
この度、わたくしは僭越ながら
合唱曲「気球に乗ってどこまでも」のオーケストレーションを依頼されまして、
たいした技術も経験も無いまま、それを仕上げてしまい、
それが明日初めてお客さんの耳に触れる運びとなりました。
嬉し恥ずかし一大事、なわけですが。
色々考えさせられる経験になりました。
まぁ譜面は綺麗に書くべきとか、各楽器間のバランスに再考の余地アリだとか、
そんな事やらが反省点に成っているわけですけども、
そういう、ある意味で編曲技術的な面。試験なら点数がつけられそうな側面については、
「オケ編」やるの初めてのくせに、我ながら、それなりに、上手くいった方だと思います。
ただしかし、考えてしまう点はそういう側面ではなくて。
「作曲家や編曲者の頭の中にある【イメージ】を、楽譜と言う媒体を通して演奏者に伝える」
ということ自体に、かなりの絶望感…に近いものを感じています。
ダイナミクスのイメージ、混ざった音色のイメージ、
テンポ運び(いわゆる「ノリ」)のイメージ、バランスのイメージ…
わたくしが勝手に思い描いたものとは、どれもちょっとズレているのが正直なところです。
ここで言う【イメージ】は、かなり具体的なそれであります。
確かに僕の書いた楽譜はこれ以上無いくらい拙いものです。
すみません…でも許してくださいド素人ですからw
しかし、同じ時代に生きて、同じようなゴハンを食べて、同じ空気を吸って、同じような音楽を聴いて、
何より同じ楽団に入っていて、演奏する人達の顔がアリアリと思い浮かぶ状況での編曲作業だったのに、
楽譜だけを頼りにすると、大規模で複雑化された「伝言ゲーム」になり、
書き手が思い描いた【イメージ】は、跡形もなく消え去ってしまう。
良い意味で捉えれば、スコアを書き終えた瞬間、「音楽の一人旅」が始まっているわけですが。
この問題を、いつも我々が接している、歴史と国を遠く隔てた作曲者にあてはめて考えてみるにつけ…
どんなに時代背景を勉強して、身元調査を重ねても、
果たして作曲者の、頭の中の【イメージ】に本当に近づく事が出来るのでしょうか?
否…そりゃ到底無理だと、一人で思っています。
ただ、【イメージ】はどうしたって独りよがりなのに違いありません。
音楽は聴いてる人々が心地よくてナンボ。
【イメージ】に沿っているかどうかが重要では決して無いのです。
もしわたくしが「気球」を指揮することが出来て、
わたくしが思い描いている「気球に乗ってどこまでも」を演奏出来たとしても、
大衆に受け入れられるかといったらそれはわからない。
それに指揮しているからといって【イメージ】通りにはいかないものですし。
伝承される芸術というのは、この辺りに複雑な問題を抱えています。
「伝統」と言う名の「癖」もしかり。
旧態依然としがちなクラシック音楽が、今後21世紀を順風満帆に航海したいのであれば、
この問題に、突破口を見出すべきです。
だけど多分それは無理でしょう。
作曲当時の響きの追究とか言って流行りだした「古楽器奏法・ピリオド奏法」ですら、
「意義」は認められながらも、おそらく予想されていたほどの「支持」を得る事無く、
ブームは既に落ち着いてきていることだし。
手垢にまみれた作品の、その汚れを落とし、
目の前の一つの作品と、真に向き合ったときに見えるものがあるのです。
それは誰かのイメージに立脚する事の無い、音楽そのものの持つ「自然な響き」。
その意味で「新しかった」のかも知れない指揮者は、
わが国が誇るべき巨匠、朝比奈隆だったのかもしれない…と妄想が膨らんでしまいました。
駄文は終わらせて、今日のおまけyoutube
今日聴いた曲ですw堅苦しいことは抜きにしましょう。
さよなりー