きどですショス10について稚拙ながら筆を執ります。
DE♭CH~♪
EAEDA~♪
ヒマならどうぞ↓
あくまで個人的な考えだけど、ショスタコーヴィチは孤独だと思う。
いや、他の作曲家が孤独じゃないなんて言うつもりは無い。晩年のモーツァルトとベートーヴェンに始まって、作曲家という職業についてきた人は、大体みんな思索的で孤独だ。作曲という仕事がとても孤独な作業だから…なのかもしれない。
僕が言いたいのは、ショスタコーヴィチは自分の音楽において、
実に具体的に「孤独」を描いているということだ。
孤独とは、一人であることが第一義だろう。「一人」であり、「独り」であること…それが孤独である。
ここでは特に、人数として「1人」であることに注目してみたい。
音楽演奏の場において、一人で演奏を行うことを「ソロ・独奏」という。
ショスタコーヴィチの交響曲では、木管楽器や、コンサートマスター、
ホルン、時としてトランペットまでもがソロを執る。
現代になって楽器も充分に発達し、どの楽器でも独奏を執れるようになった証であろうし、
マーラーやリヒャルト・シュトラウスの活躍を受けて、管弦楽法も充実しきった時代の賜物でもあろう。
だがそれ以上に、ショスタコーヴィチの書き残した独奏は、ある種の「孤独感」を必ず漂わせる。
例えば今回取り上げた交響曲10番でも、そんな特徴はたくさん見つけられる。
第一楽章のクラリネットは言うに及ばず。
第三楽章のホルンやピッコロ、まるで暗闇の中で光を求めて彷徨うかのように、おぼろげな音楽だ。
第四楽章は序奏のアンダンテがモノローグ(独白)の遣り取りである。
他にも、交響曲5番の第1楽章終盤、木管楽器とヴァイオリンのソロ。最後のチェレスタなんて1人さめざめと涙をこぼしながら祈るようだ。
交響曲第7番の第1楽章、有名なボレロに入る直前のフルート独奏も印象的だし、交響曲第9番の第4楽章は丸々ファゴットのソロである!
ソロというのは、奏者が1人で行うのであるから、得てして孤独なもののはずだ。
しかし、聴いている人たちに「孤独」を想起させるためには、「1人」でやる以上に
「独り」であることを印象付けなければならない。
例えばコンチェルトにおける独奏者に、聴衆は必ずしも孤独感を想起しない。
ショスタコーヴィチは「1人」を「独り」にするために、多くのソロに弱音指定をし、その際の伴奏声部も
みだりに動かすことを排した。
そして決め手として、調性感をほとんど無くしていると思う。
調性感を無くすことによって、和音は解決へのレールから外れ、ひたすら音を紡いでいく事で
音楽を続けるようになる。これはコースもゴールも知らないマラソンのようなもので、
音に支配関係が無い分、フレーズ感も捉え難い。
以上の要素から、ショスタコーヴィチという作曲家は、一人の人間が宛てもなく途方に暮れるように
孤独に呑み込まれる様子を、「1人」の奏者を「独り」にすることによって、実に具体的に表現して見せた。
そのあまりに鮮やかな手法は、ベートーヴェン的構築性や、バッハの影響を受けたフーガ、
さらに20世紀という時代に生きた証しとして、マーラーの流れを汲んだ管弦楽法、ベルクから来た和声など…
そういったショスタコーヴィチのよく取り沙汰される音楽的特徴や、
また社会主義時代の作曲家という社会的な背景から、
特に逸脱した彼の独創的な「特徴」として、さりげな~く評価されてしかるべきなんじゃないか、と思う。
この交響曲第10番から以降、彼自身を表す音の象徴として「DSCH」音型がよく使われるようになるのは有名な話だ。
スターリンの圧制から解放されたショスタコーヴィチが、自らを表すDSCH音型をtuttiでドカドカと
キメまくる第4楽章…勝利と自己顕示の凱歌だとして、よく語られるこの交響曲第10番。
正にその通りだとは思う。異を唱えるつもりなどない。
だが、第3楽章終結部において、
嗚咽が絞られるように演奏されるDSCH音型にも思いを馳せてみたとき、
そこに圧政下という過去の面影ばかり感じるのではなく、
素直に感情を露出させることの不得意であった、実に内省的な人間像を読み取る事も出来る。
と、勝手に思っている。心を開くのが苦手なことは、時にさびしい。
推薦盤は・・・
もうこの人に全て任せておけ~初演者ムラヴィンスキーの盤と、
指揮者がスコアを強烈に抉り出し、そこに優秀オケが豊かな響きを与えたスクロヴァチェフスキ盤を。
ショスタコーヴィチ : 交響曲 第6番&第10番 (1996/12/18) レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団 |
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番 スクロヴァチェフスキ指揮ベルリン・ドイツ響 (2008/06/30) スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮ベルリン・ドイツ交響楽団 |
杉並公会堂は良いホールなので、お客さん来るといいなぁ。
久しぶりだと長くなってしまってすみません。
ではまた。