プログラムノートの美学

 

はじめまして!
みっちーからバトンを頂きました、とろちゅーのくろです!1年生の頃から「いつか書いてみたいな…」と思っていたブログです。念願叶った喜びでたくさん書いちゃいます…ぜひ最後までお付き合いください。

先日、第86回定期演奏会のプログラムが完成しました!いざ出来上がったプログラムを目にすると、毎度そのクオリティの高さに驚くとともに「いよいよ本番か…」という実感が湧いてくるのです。わくわく…

そして、幸運なことに今回のプログラムでプログラムノートの執筆を担当し、「歌劇《イーゴリ公》より韃靼人の踊り」について解説させていただきました(実物はぜひ会場で!)。

これで僕の「プログラムノート」は3回目…これまでの歩みを少し、振り返ってみましょう。

(中略)そんな時代に彼が投じたこの作品は、チェコ人の叫びとなって世界に響き渡った。憂いをたたえた旋律が森を走り、水勢を増しながらチェコの大地を駆けてゆく。言葉のない音楽の世界で、ヴルタヴァが見つめたチェコ人の栄光と苦悩の歴史が雄弁に語られる瞬間である。そして、曲の最後を飾るVyšehrad-Motiv(ヴィシェフラドのモティーフ)では、金管楽器によるファンファーレが祖国の明るい未来を祝福している。
 一滴の水が小川となり、大河となり、田畑を、街を潤し、激しく水しぶきをあげながらドイツへと去ってゆく。早稲フィルの水面には、どんなドラマが映るだろうか?

—1年冬・連作交響詩『我が祖国』より「モルダウ」(スメタナ)

 

 音楽は、生まれた場所や気候、歴史や文化から切り離すことはできない。しかしながら、金科玉条のように音楽を取り巻く何らかの文脈を、物語を、頑なに守り続ける必要も、理解しうる範囲の価値観に置換する必要もないはずだ。
一切の意味づけと伝統と権威から解放され、丸裸の作品と向き合うこと。それは、この「交響曲第4番ニ短調作品120」が「オーケストレーションに難あり」などという一言で片づけられてしまう現状を変える勇気にも似た、いや愛なのかもしれない。

—3年春・交響曲第4番ニ短調作品120(シューマン)

 

…とまあ解説の域を度々越えつつ、プログラムに精一杯爪痕を残してきたつもりです。

僕の美学はご来場いただいたお客様に、「余白」を用意すること。

検索即知識の現代社会で、杓子定規な解説をぶっただけではwikipediaには勝てません。広がりをもって文章を締め、「余白」を用意すること。誰にも邪魔されない、その「余白」にこそ、聴く人の自由があるはずです。音楽は誰のものでもありません。もちろん専門家や権威のものでもありません。音楽には聴く人の数だけ思いがあっていい。

12月26日、私たちのオーケストラはプログラムに添えてアンケートをご用意しています。皆さんの「余白」に描かれたストーリーを、ぜひお寄せください。

 

(…とはいえ壮大すぎるオチをつける度、しばらくは団員の目線を感じます。そりゃあ、いつも後ろの方で休符を数えてる人が「愛なのかもしれない」なんてオチをつけたらね、そりゃあ…ね……///)

 

次回は、早稲フィルが誇るスーパートランぺッター・まなみちゃんにバトンタッチします。

彼女の音には星空が見えます。いつかオケをバックにアルチュニアンを吹いてほしい…

最後までお読みいただき、ありがとうございました!