文学ノススメ。

どうも今晩は、黒猫です。
皆さん、連休のご予定はお決まりですか?
既に連休に入っている、という方も世の中にはいらっしゃるようですね。
まぁ私たちは学生ですから本日はばっちりと授業でしたし
昨日の「昭和の日」も、火曜は元からワセフィルの練習日ということで
昼夜ぶっ通しで全曲tuttiでした。いやはや。
そしてGWは
本番の指揮者である黒岩先生もお招きして、合宿に行って参ります。
本番まであと少しですからね。踏ん張り時です。
皆様、是非聴きにいらして下さいね。

あ。
珍しく間をあまりあけずに書いてしまったのですが
この記事の前にきどりんがヴェルディのCD紹介を書いてくれています。
是非ご覧下さいー。

さてさて。
ワセフィルはそんな音楽漬けな毎日ですが
たまには、読書などいかがですか?
予定のない休日、傍らに音楽を流しながらゆっくりと。
電車などの移動中、暇つぶしに。
ふらっと入ったカフェで、珈琲をすすりながら。
ここをご覧になっているのが具体的にどういった方なのかはわかりかねますが
音楽をお好きな方なら、きっと文学も好き、あるいは好きになってくださると思うのです。
あらゆる芸術は繋がっているのですから。

以前とある団員ともこういう話になったのですが(笑)
一般的に「芸術」と呼ばれるものは、すごく大雑把に言うと
音楽、文学、美術に分けられます。
(舞台芸術や映画などメディア芸術は上記の要素が合わさったものなのでここでは省きます。
演劇や舞踊などの表情芸術も話がややこしくなるので省きます。悪しからず。)
これらの分野はそれぞれ独立して成り立っていますが
お互いに影響しあっていることは、私などが語るまでもないでしょう。
私はどれかがより優れている、とは思いません。
これらは表現する手段が違っているだけで
作り手の想いが表現されていることに変わりはないと思うからです。
ただ、
音楽と文学は、とりわけ関わりが深いと考えています。
特に、クラシック音楽と文学。

えぇと前置きが長くなりましたがここからこういう話が続きます。
とはいえそれほど硬くないはずなので(やっぱり長いけど)
よろしければ続きを読んでいただけないでしょうか・・・


はいどうもありがとうございます。
どれだけの方が生き残ってくださったのか甚だ心配ですが(苦笑)

さて、音楽と文学の関わりについてですが
一番わかりやすいのは、形式が似ていること、ではないでしょうか。
文学の基本は、「起承転結」です。
対する音楽も、たとえば歌なら
Aメロ – Bメロ – サビ – 間奏 – Bメロ – サビ – サビ – 終結部
とくるのがポピュラーですね。
私こういう形式の話ってうといんですが、Wikiったら「リフレイン形式」っていうらしいですね。
ポップスだけじゃなく、歌曲には多いようです。
あと、クラシックに不可欠な「ソナタ形式」。
以前きどりんもちょこっと触れていたと思うのですが、これは
序奏 – 提示部 – 展開部 – 再現部 – 結尾部(Coda)
という形です。とか書くとわかりにくいですが交響曲の第一楽章なんかによくある形ですね。

とはいえ
これらは形式の具体例を挙げただけなんですが。
要するに
始まって、うにゃうにゃ展開して、言いたいこと言って、終わりに向かっていく。
当たり前の流れではあるのですが
美術はちょっとちがいます。
この場合形式=製作過程や手法になるかと思うんですが
美術はそこに重きは置いてないですよね。

ただ、これだけではクラシックを強調することにはなりません。
正直、前置きはここまで読んでもらうためのこじつけのようなものです。ごめんなさい。
結論を言ってしまうと
クラシック音楽の演奏と、翻訳文学は似ている、と思うのです。
強引ですね。本当にごめんなさい。まぁもうちょっときいてくださいよ。

冒頭でも触れましたが
芸術というものは、作り手の想いを、作り手が最も効果的な方法で表したもの
というのが私の自論です。
文学の場合が、一番具体的と言えるのではないでしょうか。
表現手段が「言葉」だから。
それは人間が普段から使っている伝達手段だから。
対して音楽は「音(音符)」なので、より抽象的です。
だからこそダイレクトに心に響く、ということもありますが
まぁそれはまた話が長くなりますから置いておいて。

手段としては具体的な文学ですが
それが外国文学の場合、話は変わってきます。
いくらグローバル社会だからといって
みんなが原文のままそれらを読めるわけもなく
まして時代の違う古い言葉で書かれていたら、一般人はお手上げです。
だから翻訳家は
作者の意思が一番上手く伝わるように
作品の雰囲気を壊さぬように
言葉を選んで翻訳していきます。
これは、クラシックを演奏することに似ていませんか?

クラシックは何だかんだ言って、再現芸術です。
作曲家の伝えたい音楽を、この場に再現するもの。
この場合指揮者や奏者が、翻訳家にあたります。
ただ、クラシックと翻訳文学で違うのは
指揮者や奏者が演出家でもある点でしょう。
シェイクスピアの戯曲を、今まで何人もの演出家が手がけたように
作曲者の意思を汲んだ上で、自分の想いも一緒に伝えることができる。
だから、面白いと思うのです。

というわけで
かなり強引に進めて来ましたが
私の言いたいこと、伝わりましたか?(苦笑)
で、そもそも何故私がこんなことを書いたかと言うと
私はCD紹介をできるほど音源聴いてません。
かといって、練習の様子ばかり書いても面白くありません。
でもこういうエッセイもどきを書くとご覧のとおりやたら長くなるしフィルブログじゃなくなります。
なので
私はたまーに本など紹介させていただこうかと思います。たまにね。
でもフィルブログである以上音楽と関わりがないと、と思い
じゃあ外国文学ならクラシックと関連づけられるんじゃないか、ということで
こういうことになりました。
いわば壮大な前振りです。
ここまで読んでくださったそこの貴方、お疲れ様でしたありがとうございますごめんなさい。

なので
大変恐縮ですが、これからもどうぞよろしくお願いします。
それではまた。